人体『製造』 - NHK特集 - 幹細胞による再生医療
幹細胞による再生医療の現状が、NHK特集の人体『製造』という番組で紹介された。バイオニクス入門の講義でも再生医療や幹細胞については取り上げているが、番組の内容は欧米での最先端の内容でとても参考になった。衝撃的な内容であった。
番組では幹細胞の利用がキーワードで、これにより、ヒトが手足を失った場合の再生、自分の細胞による美容整形への応用、動物を使ってのヒト臓器の製造などがSFではなく、実際に可能になってくるという。中でも衝撃的なものは、救世主兄弟の存在であった。これは子供の病気を治すために、体外受精によって受精卵を複数作り、兄姉と遺伝子が適合するものだけを選び出して妊娠・出産するのだ。生まれて来た子供は、実際に兄姉の難病を治している。問題となってくるのは、遺伝子の型が正確に一致しているので、将来にわたって、その子供たちはお互いに臓器などの移植が可能になる状況である。移植を強要されかねない。米国では医師と患者間で倫理を話し合うこととして規制していない状況、イギリスではこれが大論争となって極めて大きな制限を設けることで認めている状況、日本ではオープンな議論が殆ど無い状況である。
作家であり医師でもある海堂尊氏がプレゼンターでのとても分かり易い番組だった。
番組では幹細胞の利用がキーワードで、これにより、ヒトが手足を失った場合の再生、自分の細胞による美容整形への応用、動物を使ってのヒト臓器の製造などがSFではなく、実際に可能になってくるという。中でも衝撃的なものは、救世主兄弟の存在であった。これは子供の病気を治すために、体外受精によって受精卵を複数作り、兄姉と遺伝子が適合するものだけを選び出して妊娠・出産するのだ。生まれて来た子供は、実際に兄姉の難病を治している。問題となってくるのは、遺伝子の型が正確に一致しているので、将来にわたって、その子供たちはお互いに臓器などの移植が可能になる状況である。移植を強要されかねない。米国では医師と患者間で倫理を話し合うこととして規制していない状況、イギリスではこれが大論争となって極めて大きな制限を設けることで認めている状況、日本ではオープンな議論が殆ど無い状況である。
作家であり医師でもある海堂尊氏がプレゼンターでのとても分かり易い番組だった。
西と言ったら東と悟れ
今日の諺侍では『西と言ったら東と悟れ』が紹介されました。
言葉の意味は、『人の言う言葉を、いつもまともにとっていると失敗する場合がある。相手が言う真意はどこにあるのかを推察しなけれぱならない』です。相手のことばの裏にある意味を察しなければいけないということです。世の中、駆け引きの伴う商談や交渉は思惑が入り乱れます。諺は受け継がれてきたもの、昔からこういう考えがあるわけです。
実際には、人が『西と言ったら西』、『東と言ったら東』のケースは多いと思いますが、問題はそれを『悟れる』かどうかです。疑心暗鬼なネガティブな言葉というより、『真意を見ぬく力を磨きなさい』という、ポジティブな教訓的な言葉としてとらえた方がよいかと。
言葉の意味は、『人の言う言葉を、いつもまともにとっていると失敗する場合がある。相手が言う真意はどこにあるのかを推察しなけれぱならない』です。相手のことばの裏にある意味を察しなければいけないということです。世の中、駆け引きの伴う商談や交渉は思惑が入り乱れます。諺は受け継がれてきたもの、昔からこういう考えがあるわけです。
実際には、人が『西と言ったら西』、『東と言ったら東』のケースは多いと思いますが、問題はそれを『悟れる』かどうかです。疑心暗鬼なネガティブな言葉というより、『真意を見ぬく力を磨きなさい』という、ポジティブな教訓的な言葉としてとらえた方がよいかと。
電気自動車は1円で1Km走る!
軽自動車のサイズですが、その電気自動車は1Kmを1円で走れるそうだ。三菱自動車が作った電気自動車『i MiEV(アイミーブ)』の場合、家庭での深夜電力を利用して充電した場合であるが、10円分の10km走行しても二酸化炭素の排出量もわずか55gという。ガソリンエンジンの燃費は10・15モードでリッターあたり19.2キロで、現在のガソリン価格は130円程度なので、1円では148m、10円では1.5km程度である。太陽電池パネル導入の初期投資はかかるが、これを使えば、格段にエコな乗り物になりますね。通勤やちょっとした買い物は相当に重宝しそうなクルマです。
新聞記事ですが、価格は現状では高いです。量産化され格段に安くなることを期待します。
新聞記事ですが、価格は現状では高いです。量産化され格段に安くなることを期待します。
心ここにあらざれば視れども見えず
先日の諺侍で、『心ここにあらざれば視れども見えず』が紹介されました。
この諺の元は、『心ここにあらざれば視れども見えず、聴けども聞こえず、食らえどもその味わいを知らず』で、中国の儒教の教典、『大学』からです。意味は、『心が他のことに奪われていると、たとえ目はその方に向いていても何一つ見えはしない、聴いているようで何も聞こえていない、食べていてもその味がわかならい』となる。五感は心によっていかようにもなってしまうと言うことです。集中して心がそこにあったなら、より視え、より聴こえ、より味わえるということです。『心ここにあらざれば』ですが、いかに気がつくか、どのように集中するか、ということがとても大切ですね。気づかなければ心がそこにありませんから。
英語では、
The eye is blind if the mind is absent.
と言います。
この諺の元は、『心ここにあらざれば視れども見えず、聴けども聞こえず、食らえどもその味わいを知らず』で、中国の儒教の教典、『大学』からです。意味は、『心が他のことに奪われていると、たとえ目はその方に向いていても何一つ見えはしない、聴いているようで何も聞こえていない、食べていてもその味がわかならい』となる。五感は心によっていかようにもなってしまうと言うことです。集中して心がそこにあったなら、より視え、より聴こえ、より味わえるということです。『心ここにあらざれば』ですが、いかに気がつくか、どのように集中するか、ということがとても大切ですね。気づかなければ心がそこにありませんから。
英語では、
The eye is blind if the mind is absent.
と言います。